中山幸市の名言 一覧

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中山幸市のプロフィール

中山幸市、なかやま・こういち。日本の経営者。太平住宅の創業者。岡山県出身。高等小学校卒業後、木炭問屋秋守商店を経て大阪砲兵工廠で働きながら、大阪外語の夜学を経て関西大学専門部商業科を卒業。神戸高等商船学校(のちの神戸商船大学)で簿記の教師を経て、30歳で関西電話建物を設立、日本電話建物に商号変更し軌道に乗せたが社を乗っ取られ退社。日華貿易産業、石炭化学工業などを創業。太平洋戦争後、50歳で太平住宅を創業。太平住宅、保険会社太平火災を中核に様々な事業を行った経営者

商売というものは、儲けよう、儲けようと思うよりも、客を喜ばせることを考えるべきである。そうすれば、だんだん仕事は忙しくなってくる。忙しくなれば経費も少なくて済むし、自然と儲かってくるものである。


商売というものは、時代の移り変わり、国際、国内情勢を見ながら工夫していけば、次から次へと生れてくるものだ。


私はもともと商売人で、これといった大きな資本を持っていたわけではない。したがって、私の商売に対する姿勢は、資本のかからない商売をすることがモットーであった。


商売というものは、大衆は何を欲しがっているか、その欲しがっているものをいかに安く、買いやすい方法で提供するか、それが成功の基である。


「窮すれば通ず」という言葉があるが、まさに、その通りである。ただ、窮したという切実感を持ち、その切実感がひとつの努力となって現れて来なければ、通ずることはできない。


「自分には資金がないから……」といって、諦めては駄目だ。金のない者にとっても、金を得る道はある。それは頭だ。私が育った時代に比べれば、世の中に流動性はなくなった。しかし、頭の使い方、アイデア次第で、これからでもひとつの商売を生み出すことはできる。新規な商売、誰も気づかない商売を考え出すことが、金のない者が金を得る道である。


会社の首脳部たる者は、どんなときでも、最後まで社員の面倒を見る義務がある。


人間、喧嘩をした場合、どんな方法をとってでも相手の弱点を突いて勝たなければいけない。一度、負けたとなると、いつもその人間に一目置く気持ちを持つようになる。それは犬の喧嘩を見てもわかるであろう。負け犬はいつもその犬に会うと、しっぽを巻いて逃げる。


私の目標は「金持ちになろう」ということだった。そのためには月給3円のうち1円50銭は残そうという計画を立てた。そして、一方では人よりも早く起きて、人よりも余計に働き、存在を認められようと考えた。


私は日本の火災損害保険制度に関心を持った。家の欲しい方に、建てやすい方法で家をつくって差し上げる。しかし、家を持てば火災が心配になってこよう。せっかく建築されても、あすは火災で失ったとなれば、私の仕事は本当の住宅づくりをしていないことになる。
【覚書き|火災時に保険金を支払うのではなく、家屋の再築・修理を行う保険会社、太平火災を設立した理由について語った言葉】


希少価値は必ず金になるはずである。しかし、私一人がごそごそ働いても、とてもひとつの大きな力を生み出すわけにはいかない。あくまで組織をバックにしなければ、交渉の相手は信用してくれないだろう。


会社を発展させるためには、社員も小使いもない、人間の和である思いやりである。会社のために生命をかけてくれている重役、従業員の努力に改めて頭を下げたい。


いまから考えると、参議院選挙で落選して良かったと思っている。過去、政治と経営の二兎を追った人が、どういうことになっているか……、そこにはあまり芳しくない例が残されている。私は経営者としての道を歩くべく、はっきりと見極めをつけた。
【覚書き|あと少しのところで落選しただけなのに1度の落選で政治家になることをスパッと諦めたことについて語った言葉】


問題は、名もない太平住宅に、果たして加入申込者が現れてくれるかどうかだった。事実、過去の実績を示そうにも、建築した家のサンプルがないし、客は「金を払っても、本当に家を建ててくれるのか」と二の足を踏むのが多かった。結局、それを打ち破ったのは、セールスと宣伝であった。はじめの1、2軒が建築されたところで、これを客に見せ、契約をとる。その契約で完成した家をまた次の客へ……。こうして、建築の実績と宣伝の循環方式で加入申込者を開発していった。


商売のヒントは生活の中にある。


商売の基本は、まず大衆に喜ばれるもの、時代の要求を反映したものは何かと考えることである。次に商品がかさばらないで、重くないこと、すなわちカタログ販売できることである。次にできる限り大勢の人の協力を得ること。自分一人でやっても、それはひとつの力にはならないことを知っておくべきである。この際、自分だけいい目を見ようとせずに、協力者と共存共栄をはからねばならない。この原則を守れば、必ず仕事は成功する。


自分が創設した会社を追われ、激しいインフレの中、ひどい食糧事情だ。私は生きるため、明日の自分の仕事をつくり出すために、私の才覚は素早い回転で動いた。これも、これまで生きてきた私の道が厳しかったせいであろう。
【覚書き|終戦直後、無資本から米兵へのお土産屋ビジネスを成功させた当時を振り返っての発言】


米兵に日の丸の旗を売ることについては、私は私なりの考え方があった。これが侮辱的に扱われるならともかく、聞けば、兵隊たちはこれを記念品として大切に我が家に飾り、そして武勲談を語るというのである。いわばアメリカ人の愛嬌のある演出効果を狙ったものだ。私はMPの将校とともに、その間の事情を警察署長に理解してもらった。
【覚書き|終戦直後の動乱期、進駐してきた米兵の願いでお土産として日の丸国旗を販売していたとき、警察から「けしからん」と言われたことについて語った言葉】


いまから考えると、この(会社を乗っ取られ追い出された)おかげで他の商売のことも勉強できたのである。あのまま「日本電話建物」に安住しておれば、おそらく片輪の経営者になってしまったであろう。
【覚書き|氏が設立した日本電話建物を雇った社長に乗っ取られた追い出された当時を振り返っての発言】


こうした行動が、なんの照れくささも感じずにできたのは、これまでの生活が私に押しの太さという才能を育んでくれたからで、その点からも、私は人間、貧乏を経験することが必要だと思っている。
【覚書き|神戸高等商船学校の教師時代、近所の夜間学校に講師として雇って欲しいと交渉に行ったときを振り返っての発言】


高等小学校2年のとき、とても家から小遣いがもらえないとわかったとき、私は自分の小遣いは、自分で儲けてやろうと考えついた。これが私の変わった人生の始まりである。


人間一人の存在はまことに渺(びょう)たるものである。もちろん、私とて今日あるのはすべて「父母の恩」「社会の恩」「国家の恩」のおかげである。その恩に感謝する気持ちを忘れないで、1日1日を過ごしていきたいと思っている。


伯母が縁談を持ってきた。その後、「どうもいけないね、知らなかったけど、あの娘は丙午(ひのえうま)なんだよ」と言った。しかし私は「それはかえっていい」と返事をした。というのは、丙午の娘ともなると、勢い、縁も遠くなる。私はそんな迷信なんて気にもしないが、もらわれるほうは「よくぞお嫁さんにしてくれました」と感謝の気持ちを持つであろう。そうなれば、女房教育もできるだろうし、私の関白の地位もまず大丈夫であろうという魂胆である。


「太平住宅」「太平火災」の組織を見ればおわかりのように、私はあくまで、利潤を追求する企業経営者とはなりたくない。私の理想とするところは、資本家も労働者もない企業形態を具現したいと思っている。その底に流れるものは、大衆に喜ばれる、大衆への奉仕である。こうした考え方は、私が貧しくして育った青少年時代の影響であろう。


商売の基本は、まず大衆に喜ばれるもの、時代の要求を反映したものは何かと考えることである。次に商品がかさばらないで、重くないこと。すなわちカタログで商売できることである。


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