中山均の名言 一覧

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中山均のプロフィール

中山均、なかやま・ひとし。静岡銀行頭取。早稲田大学卒業後、天龍川治水などに尽力した金原明善氏の付き人をしたのち、第百銀行を経て浜松銀行入社。二川支店長、新居支店長などを経験したのち、西遠銀行をはじめとして大小の銀行120行を合併し静岡銀行設立に尽力。その後、同行の副頭取を経て頭取。浜松新聞創業者、地方銀行協会会長、日銀政策委員会委員なども務めた。

私の信条として、引き受けたからには打込まねばならない。月給をもらっているからには、与えられた仕事に全生命を打ち込まねばならない。


何の商売によらず、強い者と弱い者がある。弱い者は個々の力は問題でないから、どうしてもまとまらねばならない。そこで我々はまとまった。
【覚書き|地方銀行協会を立ち上げた当時を振り返っての発言】


私は前々から、一人一業主義を提唱し、自分もそれを信奉してきた。人並み以上に健康に恵まれ、人並み以上に頭のいい人ならともかく、普通の健康と普通の頭脳を持っているものなら、一人一業主義でいくべきだ。私は自分の健康や能力に自信がないから、地道にひとつの仕事をコツコツとやってきた。約半世紀を金融関係の仕事で生きてきた。


人間、ひとつの仕事に専念していると、よほどの馬鹿か、異常者でなかったら、自分の打込んでいる仕事に興味を持つようになるものだ。だから私は神様か、天才でもない限り、人は一生一業で貫いた方が、当人のためにも国家のためにもなると固く信じている。


私はときどき、自分の歩いてきた道を振り返ってみるが、それは、いってみれば、弱者に対する味方であり、別の言葉でいえば、権力に対する反抗であった。そのためにいろいろな抵抗もあって、求めて余計な苦労をしてきたようだが、私は自分のこれまでの生き方について、かつて後悔したことがない。だから私の生命がある限り、弱い者の味方になり、権力や金力の横暴と戦っていくつもりでいる。


考えてみると、私は世にも幸福な男かもしれない。三男一女の父だが、そのうち次男を戦争で失った以外は、みんなよき息子、よき娘で、それぞれよき家庭を営んでいる。子供たちがこうも見事に育ったのは言うまでもなく私の力ではない。私にそんな力や才能のあろうはずがない。なにを隠そう、みんな女房玉恵の丹精のたまものである。


いまの私は不幸な人のために余生を捧げたいという気持ちでいっぱいだ。人の世には数えきれないほど多くの不幸があるが、中でも親に先立たれた子供、子に先立たれた親、夫に先立たれた妻ほど哀れなものはない。私はこの3つを、人生の三大不幸といっている。そこで私は親のない子や、才能があっても貧しい子らのために育英事業を、扶養者のいない老人のために養老事業を、そして未亡人のために授産場や母子寮を与える仕事に、及ばずながら努力している。


幸いなことに、私のような我がまま者にとって、なによりも幸せなことは、家庭の環境に恵まれているということだ。第一、私の家内は若いころから「あれが欲しい、これが欲しい」とねだったことがない。そんな調子だから、生活には昔から大した金がかからない。おかげで私は今日まで、安んじて自分の夢をそっくりそのまま抱いてくることができた。


切り詰めた生活の中から、私は毎年、少ないときでも20万円、多いときは30万円ぐらいを社会事業や慈善活動に寄付している。講演やなんかで旅に出ることが多いが、汽車や電車は3等と決めているし、日銀政策委員になってからは夜の宴会には一切出ないことにしているので、余計なお金がいらないところへもってきて、おかげで健康も保たれている。


つつましい生活の中で、私のうちでは現在3人の学生の面倒を見ている。多年にわたり、私のうちには2人や3人の学生がいないことはない。どんなときでも青年に期待し、青年の世話をするというのが、私の理想であり、夢である。


いまの私には、物欲なんて欠片ほどもない。日銀政策委員といえばいかめしいが、私の収入は手取りで7万5千円ぐらいのものだ。それに、たまに入る原稿料や講演料を加えても大したことがない。しかし、いまの私の生活はその程度の収入でも十分にやっていける。私ども夫婦はつつましい生活に満足しているからだ。


静岡県勧善会は刑務所から出てきた者に生業を与える事業をやっている。完備した刑務所をどんなに増やしても、悪事を働く人間が後を絶たないようではなんにもならない。それよりも、肝心なことは刑務所に入る人間を一人でも少なくすることだ。それが、勧善会の仕事である。
【覚書き|師の金原明善氏の勧善会の活動を引き継いだことについて語った言葉】


地方産業の発達に尽くそうという私の熱意はいまも変わらない。これなくしては大企業の進展もないし、日本経済の確立もないというのが私の信念である。私はそうした信念のおもむくまま、果敢に行動してきたつもりである。金融政策も経済政策も、大企業中心主義になっているいまのやり方には私は不満である。


現在浜松には日本楽器(のちのヤマハ)あり、帝国製帽ありといった具合に、全国的に知られる有名な企業がいくつもある。これらの企業の発展は、たとえば日本楽器に山葉(山葉寅楠、ヤマハ創業者)という天才的な人物があったごとく、それぞれ傑出した経営者の手腕によって育まれたことは事実だが、一方、地方産業の育成という大前提に立った銀行のバックアップに負うところも少なくない。


私は約42年地方銀行の経営にあたってきたが、地銀のあり方として終始唱えてきたのは、政党色の排除と地方産業の育成である。


金融機関はあくまでも自立すべきで、絶対に政党色を持ってはいかん。というのがいまに変わらぬ私の信念である。だから私は政治家にはなれないし、またなりたいとも思わない。厳正中立であるべき金融機関が、政党政派に関係することは断じて避けねばならん。


私は翁にくっついて、よく一緒に旅行した。車中で食事の時間が来ると駅弁を買って食べるのだが、弁当箱を開けると、外へこぼれない程度に静かにお茶をかけて、一粒の飯もおろそかにしないで食べ、残ったおかずも、きちんと包んで家に持って帰られた。
【覚書き:天竜川周辺の治山治水事業、北海道の開拓・植林事業に全財産を投じ、近代日本の発展に大きく寄与した金原明善氏の付き人をしていた時を振り返っての言葉。翁とは金原氏のこと】


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