三村起一の名言 一覧

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三村起一のプロフィール

三村起一、みむら・きいち。日本の経営者。石油資源開発社長、会長。住友鉱業社長。日本の石油開発に尽力した人物。東京出身、宮崎育ち。東京大学法学部卒業後、住友本社に入社。住友伸銅所(のちの住友金属)勤務後、デトロイトのフォード工場に出向し労働者として働き同社の研究を行う。その後、住友伸銅所工場課長、副支配人、別子銅山所長などを務めたのち、太平洋戦争後の財閥解体で住友を退社し、鴨川化工、日本冶金などの経営再建を成し遂げたのち、石油資源開発会社初代社長に就任。そのほか、北スマトラ石油開発会長、石油鉱業連盟会長、日経連理事、産業災害防止対策審議会会長、経団連常任理事なども務めた。

私は「苦進楽慎」という標語を会社の重役に示した。苦しいときこそ万難を排して進もう。楽になったら逆に引き締める。竹内専務と昼食の芋を食いながらこう決意した。
【覚書き|太平洋戦争直後、倒産寸前の鴨川化工社長として同社の経営再建に乗り出した当時を振り返っての発言】


良いことは必ず何年目かに来る。苦しいときに委縮せず無理をしても積極的に準備した者は、いつかはやってくる好況のとき勝ちをしめる。
【覚書き|倒産寸前の鴨川化工の社長を引き受け、経営再建をし始めた当時を振り返っての発言】


数年の歳月は失敗のうちに過ぎた。しかし失敗は成功の母だ。山は生きている。真心を込めて呼べば必ず答える。
【覚書き|別子銅山所長時代、新たな鉱脈を探し、掘りつづけたときの発言。数年間の悪戦苦闘のあと、新鉱脈を発見することに成功した】


私は労務管理に三安定主義を唱えた。地位の安定、生活の安定、および将来の安定がこれである。新工場移転の際は、やむなく老年病弱者の引退を求めたが、とてもつらかった。以来一切解雇はせぬ方針で、その後今日まで35年、苦しいときも手を取り合って犠牲者を出さずに来た。


住友伸銅所(のちの住友金属)での最初の仕事は庶務課だった。私はまず最下級の仕事からやらせてくれるよう希望して出入口の受付に座った。
【覚書き|東大法学部卒業後、住友本社に入社した当時を振り返っての発言】


義母の由は維新の鉄砲弾の中で、15で三村家に嫁いだだけあって元来気丈、一種の女丈夫であった。自分のことを自ら鬼ばばあと称していた。「士(サムライ)の子は金のことなど言うものではない。三村の家は貧乏を宝とする」と義母に清貧主義を吹き込まれた。
【覚書き|生後間もなく養子に出された先の三村家の生活を振り返っての発言】


こんなむごいことがあってよいものだろうか。1日40人からの大小の負傷者を出し、ある年は7名の殉職者を出していた。いったい何事だ。生産は社会のためになるものをつくるのだ。その生産者の生命身体を犠牲にしてもよいのか。災害なき生産こそ真の生産だ。安全生産こそ工場生活の基本である。私はこのときから一生を安全運動に捧げようと堅く胸に刻んだ。
【覚書き|新人時代、工場で機械に巻き込まれ死んだ工員を見たとき、安全管理を徹底しなければと決意した当時を振り返っての発言】


生産は社会のためになるものを作るのだ。生産者の生命身体を犠牲にしてはならぬ。災害なき生産こそ真の生産だ。【覚書き|石油資源開発の初代社長として活躍し、日本の石油鉱業の発展に貢献してきた三村氏が一貫して大切にしてきた哲学を語ったもの。事故が起こらないよう安全運動に力を入れた】


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