マザー・テレサの名言 一覧

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マザー・テレサのプロフィール

マザー・テレサ。アグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ。アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。オスマン帝国領コソボ州ユスキュプ(のちのマケドニア・スコピエ)出身のカトリック教会修道女。幼少期からインドで修道女として働くことを夢見る。18歳でアイルランド系修道会のロレト修道女会に入り、カルカッタへ赴任。カルカッタ聖マリア学院地理教師、校長などを務めたのち、現地の貧しき人々のために働きはじめる。修道会「神の愛の宣教者会」を設立。「死を待つ人々の家」を開設し、ホスピスや児童養護施設として運営し、貧しき人々のために一生を捧げた。ノーベル平和賞、ヨハネ23世教皇平和賞、ジョン・F・ケネディ賞、アルベルト・シュバイツァー賞、そのほか多くの賞を得た。

すぐにお国にお帰りなさい。家に帰って家族を大切にしなさい。
【覚え書き|「世界平和のために私たちは何をしたらいいですか」という問いに対する返答】


このお金でいくつのパンが買えますか?
【覚え書き|ノーベル平和賞授賞時の発言】


私は受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。
【覚え書き|ノーベル平和賞受賞時の発言】


話すことは少なくしましょう。説教して聞かせても、それが人と触れあう場にはなりません。箒を持って、誰かの家をきれいにしてごらんなさい。それが十分に語ってくれます。


私たちは皆、神の楽園に憧れています。でもじつは私たちは、いま置かれたところで楽園を味わうことができるのです。


人々は与えることを学ばなければなりません。でも、与えることを義務と考えるのではなく、与えることを願いとすることが大切です。


他人をとがめる資格が私たちにあるのでしょうか。確かに正しくないと思うことをしている人たちがいます。でも、なぜそうしているかという理由はわかりません。イエスは、人を裁くなと言われました。もしかしたら、他人の誤った行いの責任は、私たちにあるのかもしれないのです。皆、私たちの兄弟姉妹であることを忘れないでいましょう。非難する前に、自分の心の中を見つめる義務が私たち一人一人にあります。


大切なことは、たくさんのことを成し遂げることでも、何もかもをすることでもありません。大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。貧しい人々に奉仕しているとき、私たちは神に仕えているのだ確信していることなのです。


苦しみが私たちの生活に訪れてくるとき、微笑みをもって受け入れましょう。神が送りたまうすべてを微笑みながら受け入れる勇気は、神からの最も偉大な賜物といえます。


私たちの周りの人々を理解するように懸命に努力を尽くすべきです。そして、ともに住む人々をより理解するために、自分自身をまず理解することがどうしても欠かせないのです。


傲慢さはすべてを壊してしまいます。イエスのように生きる秘訣は、心が柔軟で謙遜な人になることです。


もしも私たちが謙遜ならば、褒められようと、けなされようと気にしません。もし誰かがあなたを非難しても、がっかりすることはありません。反対に誰かがあなたを褒めてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思う必要もありません。


平和も戦争も家庭から始まります。もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家が相互に愛し合うことから始めていきましょう。もし、喜びを広げていきたいなら、まず、ひとつひとつの家族が喜びをもって生活することが必要なのです。


パンがなくて死ぬ人が数えきれないほどいます。そして同時に、数えきれないほど多くの人々が、ちょっとでいいからその存在を認めて欲しいと願いながら、わずかばかりの愛すら与えられないがゆえに、生きる勇気を失っています。


私たちにとって、清貧とは自由を意味しています。清貧こそは私たちの力であり、幸福の源なのです。


私たちの清貧のひとつの表れは、繕いものに出ているといってもよいでしょう。破れたときはできるだけ上手に繕います。街や修道院のまわりを破れたサリーをそのまま着て歩き回ることは、清貧の徳の証にはなりません。私たちは自分たちの体が、精霊の神殿だということを忘れてはいけないのです。それ故に私たちは、恥ずかしくないようにきちんと繕われた衣服を身につけて体への尊敬を表すのです。


目的を達成しようとするとき、邪魔をする人に出会うでしょう。ですが、気にすることなく、やり遂げなさい。


いま、この瞬間、幸せでいましょう。それで十分です。その瞬間、瞬間が私たちの求めているものすべてであって、ほかには何もいらないのです。いま、幸せであるように努めましょう。


誰もがほほ笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。神はあなたを愛しているのですから。


愛の反対は憎しみではなく、無関心です。世界で一番恐ろしい病気は、孤独です。


この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです。


この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。


私たちは大きなことはできません。ただ、小さなことを大きな愛で行うだけです。


愛されることより、愛することを。理解されることより、理解することを大切にしなさい。


貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。なぜなら私たちが分かち合わないからです。


神にお仕えするためには、ごくありきたりな仕事を、できるだけ楽しく喜んで実行することです。


どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。


他人を、あなたより貧しい人も含めて、愛しているのだということを、行動によって示すことで、彼らを幸せにすることができます。たくさんのものが必要なわけではありません。ただ、微笑みかけてあげるだけでいいのです。


助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。ですが、気にすることなく助け続けなさい。


あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう。ですが、気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。


善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。ですが、気にすることなく善を行い続けなさい。


あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。ですが、気にすることなく、善を行いなさい。


人は不合理で、非論理的で、利己的なものです。ですが、気にすることなく、人を愛しなさい。


●人は一切れのパンではなく、愛に飢えているのです。
●強い愛は分け隔てをしません。ただ与えるものなのです。
●愛とは、大きな愛情で小さなことをすることです。


太陽を見なさい。そうすれば影は見えなくなるから。


私の勇気を褒めてくださる人々に申しあげたいのは、私が、ハンセン病者の体に触れ、言いようのない悪臭を放つ膿の流れる体に触れるたびに、聖体でいただくキリストと同じキリストの体に触れているのだと確信なしには、その勇気はあり得ないということです。


年寄りにとって、他人にしたらたわいもないことでしかないのですが、自身にとっては大切な昔の物語を聞いてもらうことが大きな喜びなのです。聞いてくれる人を持たない人の話を聞いてあげるのは、素晴らしいことです。


先進国にも、ひとつの貧しさがあります。それは、お互い同士、心を許していない貧しさ、精神的貧困、淋しさ、愛の欠如から来る貧しさといっていいでしょう。愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です。


あなたのごく近くに、愛情と優しさに飢えている人々がきっといます。どうぞその人たちを見捨てないでください。彼らに人間としての尊厳を認め、あなたにとって大切な人たちなのだと、真心を込めて認めてあげてください。


私が怒りを覚えるのは、無駄使いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。


貧しい人たちは、もう十分に悲しみを味わっているのだから、その人々を一層みじめな思いに浸らせないことのないように、喜びをもって接しなさい。


お金を恵むだけで満足しないようにしましょう。お金がすべてではありません。貧しい人々は、私たちが身を持って示す愛。私たちの心の表れとしての愛を求めているのです。


男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人々は、真の貧者です。もし自分の手もとにあるお金を他人に与えようとするなら、そのときその人は富者、真の意味で豊かな人となれるのです。


執着心から、捨てられないもののなんと多いことでしょう。すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。


私の恐れているものはただひとつ。お金です。お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。


私は親切にしすぎて間違いをおかすことの方が、親切と無関係に奇跡を行うより好きです。


愛は身近な人、家族を気遣うところに始まります。私たちの夫、妻、子供たち、または親たちが、一緒に住んでいながら十分に愛されていないと感じ、孤独な生活をしているのではないかと反省してみましょう。


私が喜びと言うとき、それは大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とはことなります。人は笑いとか馬鹿騒ぎで何かを誤魔化そうとすることがあるものです。


神が私に望んでいらっしゃるのは、事業を成功させることではなく、忠実に生きることなのです。神と相対して生きているとき、大切なのは結果ではなく、忠実さなのです。


一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちに微笑みかけることは、あまり親しくな人々に対して微笑みかけるよりも難しいときがあるものです。「愛は近きより始める」ということを忘れないようにしましょう。


ある人がかつて私に、100万ドルもらっても、ハンセン病患者には触りたくないと言いました。私は答えました「私も同じです。お金のためだったら、200万ドルやると言われても、いまの仕事はしません。しかし神への愛のためなら喜んでします」と。


倒れるまで一生懸命働くことも、力以上に働くことも、してできないことはありません。でも、そんなに働いても、それが愛に基づいてなされていないなら、神の目には無益なことでしかないのです。


病気にはそれぞれ特効薬があります。ところが愛されないが故の寂しさだけは薬では癒されません。私たちがしている仕事を評価してくださっている方々にお願いしたいのは、どうぞ自分の周囲を見回して、愛に飢えている人々に喜んで愛を与え、その人たちに奉仕してくださいということです。


何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、ほかの人間のそれとまったく同じ質と量の尊厳なのです。


貧しい人々の物質的な貧しさだけでなく、その精神的な傷口にも私たちは手当てをしてあげねばなりません。私たちが彼らとひとつに結ばれて、その悲しみを心から分かち合うときにのみ、彼らの生活に神をもたらし、また彼らも神に近づいて癒されるのです。


自分のことへの思いわずらいでいっぱいだと、他人のことを考える暇がなくなってしまいます。


私たちが仕えている貧しい人たちは、あなた方からの憐れみも、見下すような態度も必要としていないのです。彼らが必要としているのは、あなた方の愛と親切なのです。


インドでは、貧しい人々はわずかのお米を他人から受けることで満足し、幸せになれるのです。一方、ヨーロッパの貧しい人々は、自分の貧しさを受け入れることができずにいるので、その多くにとって貧しさは失望の源でしかないのです。


生活の中にいろいろなことが入り込むので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。そんなことはありません。祈るために仕事を中断する必要はありません。仕事を祈りであるかのように続ければよいのです。大切なのは、神とともにあり、神とともに生き、神の御心を自分のものとして行うことなのです。清い心で人々を愛し、すべての人、とくに貧しい人々を愛することが、間断ない祈りになるのです。


夜の10時ころだったでしょうか。ドアのベルが鳴りました。私がドアを開けると、一人の男の人が寒さに震えて立っていました。「マザー・テレサ、あなたが大きな賞(ノーベル平和賞)を受賞なさったと聞いたとき、私もわずかですが何か差し上げたいと思い立ちました。これが今日私がもらったすべてです。何卒、お受け取り下さい」それは確かにわずかでした。でも、彼の持ち物すべてだったのです。それは、私にとってノーベル賞以上の感動を与えてくれました。


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