ヒラリー・クリントンの名言 一覧

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ヒラリー・クリントンのプロフィール

ヒラリー・ローダム・クリントン。アメリカの政治家、弁護士。イリノイ州シカゴ出身。ウェルズリー大学卒業、イェール・ロー・スクール卒業。学生時代から政治に興味を持ち、共和党・民主党の党員として活動。イェール・ロー・スクールでビル・クリントンと出会い、のちに結婚。上院議員、国務長官などを務めた。

不安はいつだってついてまわります。でも、私たちには不安がってる時間はないんです。


自分を笑う。これは生き残るためには不可欠な手段であり、隠れ家に引きこもってしまうよりずっといい。


立ち止まるな、そんな事情だからこそできる最善を尽くすべし。


何かを固く信じたら、それを守る気構えを持っていなければいけない。


人が自分と意見が違うからといって、相手が悪いわけではない。


人はその人の言い分や支持するものばかりでなく、その言行の結果からも評価されるべきだ。


説得しようとする相手に、当初低く見積もられていると、それが有利に働くことが多い。


百万のデモ参加者が石を投げるより、キング牧師やマハトマ・ガンジーの方が、節度ある不服従と非暴力を通して本当の変化をもたらした。


わが家のキッチンテーブルを囲んだ話し合いは活発で、ときには喧嘩腰になったけれど、私は一つ屋根の下でも意見が分かれていいのだということを学んだ。


私をどんな鋳型にもはめようとしなかった両親がいて、本当に運がよかった。二人はただ、抜きんでるように、楽しくやるようにと励ましてくれたのだから。


私のような人生は、私の母や祖母たちには歩めなかった。父と祖父たちには想像もできなかった。でも、彼らは私にアメリカの未来を与えてくれ、それで私の人生は選択が可能になった。


スピーチをする時、想像のなかでルーズヴェルト夫人に語りかけ、さまざまな問題について助言を請うという話を冗談交じりに披露することがよくあった。想像するのに正しい相手を選びさえすれば、問題を分析したい時には、実際これはとてもいい頭の体操になる。エレノア・ルーズヴェルトはそういう意味で理想の人物だった。


ホワイトハウスの中にも外にも、私を公然と非難しようと手ぐすね引いて待つ人々は大勢いた。そういう騒音に知らん顔をするのは心苦しかったが、ビルと私は、自分たちを奮い立たせるために何ができるかに意識を集中させた。新しい環境のための新しい戦略を練る必要があった。


私たちが犯した最も重大な過ちは、あまりにたくさんのことをあまりに性急にやろうとしたことだった。といっても、その努力をしたことに関しては正しかったと今でも私は信じている。私たちはとにかく努力をした。そのことを、今でも私は誇りに思っている。


私はどこに助けを求めればよいのかわからなかった。そこで逆境に直面した時にしばしば使う手を使った。あれこれ考える暇がないように、自分を超多忙なスケジュールに投げ込んだのだ。


ファーストレディに訓練用のマニュアルなどなかった。この仕事に就いたのは、結婚した相手の男が大統領になったからだ。私の先輩たちは、それぞれ自分なりの姿勢、期待、好き嫌い、夢、疑問をホワイトハウスに持ち込んだ。どの人も自分自身の興味、スタイルを反映させて、それが夫、家族、国の要求に叶うようにバランスを取った。私もそうする気だった。私以前のファーストレディと同じように、私が引き継いだ機会と責任にどう応じていくか決めなければならなかった。


ときどき、私は自分にとって何が正しい道かを、心の声に耳を澄ませて決めている。それだからこそ、一般人やマスコミはいうに及ばず、家族や友人にまでその選択を疑問視され動機をあれこれ詮索されると、その決定には孤独感がつきまとう。


大統領選のキャンペーンほど複雑でプレッシャーの多い企てを、大勢の人を信用しないでできるものではない。私たちは信用できると思う大勢の友人とキャンペーンのプロたちとともに、仕事に取りかかった。


私はビルに「意思決定のデッドラインを決めなさい」といった。ビルを知っている人ならわかっているが、デッドラインが決められていないと、賛成・反対の可能性をいつまでも探りつづけてきりがない。ビルは7月17日をデッドラインと決め、どっちに転ぶにせよ、ホテルで声明発表するといってホテルの予約をした。


父は小学生だった私に株式市場の動きを見ることを教え、たびたびいった。「金は木に成りはしないんだぞ」。よく働き、金を貯め、賢明な投資をしてこそ経済的に自立できるのだ、と。


ウェルズリーの大学生としてすぐに調子は出なかった。クラスに登録してみたら、背伸びしなければついていけないことがわかった。一カ月後、家にコレクトコールで電話をかけ、「ここでやってけるほど頭がよくないみたい」と訴えた。父は帰って来いといってくれたが、母は落ちこぼれになってほしくないと言った。こんな危なっかしいスタートだったが、もう家には帰れないのだと迷いが吹っ切れると、何とかうまくやってみようと思った。


アメリカ航空宇宙局(NASA)に宇宙飛行士の訓練に応募したいと手紙を書いた。だが、返事は「女は受け入れない」というものだった。生まれて初めて、勤勉と決意をもってしても克服できない障害があるとわかった。もちろん、私の視力と並みの身体能力では、性差をうんぬんするまえに、どのみち駄目だったろう。それにしても、完全否定に傷ついた私は、どんな差別であれ、差別にさらされている人にはより共感を持って接するようになった。


母は独善や道徳をふりかざしたカッコつけが大嫌いで、私や弟たちにいつもいっていた。「私たちはほかの人よりマシなわけでも、ダメなわけでもないんだからね」。


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