チャップリンの名言 一覧

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チャップリンのプロフィール

チャールズ・スペンサー・チャップリン。イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー。ロンドンの舞台俳優兼歌手夫婦のもとに生まれる。両親の仕事が上手くいかなくなったことから極貧生活を送ることになり、様々な職を転々とした。その後、兄とともに舞台俳優・コメディアンとなる。欧州でコメディアンとして大成したのち、アメリカに渡り、当時黎明期だった映画の世界へ足を踏み入れる。監督兼主役として数々のヒット映画を生み出し、数々の賞を受賞。主な作品に『キッド』『黄金狂時代』『街の灯』『モダン・タイムス』『独裁者』『ライムライト』ほか。喜劇王と讃えられた人物。

私の最高傑作は「これから作る次の作品」だ。


いつまでも続く不運などというのは、良いことずくめの一本道の人生などというのがないと同様、まずあるはずのものではない。つまり運・不運ともに、いつかは変わるに決まっている。


人の不幸を司る神は、ときおりその遊びにも飽きて、慈悲を垂れることがある。


危機というものは、続いているうちに、クライマックスがやってくる。


成功は人を愛想よくする。私はスタジオの人たち、誰ともみんな親しくなった。エキストラから道具方、衣装係からカメラマンに至るまで、私はみんなの「チャーリー」になった。もともとあまり社交好きではなかったが、さすがにこれは嬉しかった。つまり、みんなが親しんでくれるというのは、とりもなおさず私が成功者だという証拠だったからである。
【覚書き|イギリスの舞台俳優からアメリカの映画俳優に転身した当時、スタジオの面々と意見が衝突し孤立していたが、チャップリンの映画の成果が出始め周囲との関係が上手く行きだしたことを振り返っての発言】


妙なもので、舞台が失敗と決まると、かえって気は軽くなり、心の重荷も降りた。アメリカには、ほかにチャンスがいくらでもある。どうして舞台ばかりに噛り付いているのだ?何も芸術に一生をささげたわけじゃない。商売をかえろ!私はようやく自信を取り戻しだした。そうだ、どうなろうとアメリカで頑張ろう。そう私は決心した。
【覚書き|最初のアメリカ巡業が失敗に終わったときを振り返っての発言】


新聞売り子、印刷工、おもちゃ職人、ガラス職人、診療所の受付などなどと、あらゆる職業を転々としたが、その間もシドニィ(兄)と同様、俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった。だから、仕事の合間には、靴を磨き、服にブラシをかけ、きれいなカラーをつけて、ストランドに近いベドフォード・ストリートのブラックモア俳優周旋所へ定期的に顔を出していた。それは服がボロボロになって、とても人前には出られなくなるまで続いた。


母の言葉を借りると、結局、客人というものはケーキと同じで、滞在期間が長くなると味は落ちるというのである。
【覚書き|貧しい時代に母の金持の友人の屋敷で客人として長期滞在したときを振り返っての発言】


母は私に舞台に対する興味を植えつけだした。自分には才能があると、私が思い込むように仕向けるのである。


運命の女神たちが人間の運命を決定するとき、そこには憐憫もなければ公平感もない。


当時の私たちのようなどん底暮らしをしていると、つい言葉づかいなど構わないようになりがちだった。しかし母は、いつも周囲の風に馴染まぬように心がけ、家族の言葉づかいにも注意深く心を配り、文法上の誤りなどは訂正し、私たちが周り(の貧しい人々)とは違った人間なのだという自覚を植え付けようとした。
【覚書き|幼少期の極貧時代を振り返っての発言】


この人生は、どんなにつらくとも生きるに値する。そのためには3つのことが必要だ。勇気と、希望と、いくらかのお金だ。


わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私のほしいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ。
【覚書き|『サーカス』で第1回アカデミー賞の特別名誉賞を受賞したのちの発言。チャップリンは授賞式に欠席しただけでなく、贈られたオスカー像をドアのつっかい棒にした。】


貧乏は楽しいものだと他人に思わせるのはけしからん態度である。貧乏に対してノスタルジアを感じたり、その中に自由を見だしたりする人にはまだ会ったことがない。名声や巨富は拘束を意味するなどと言って貧乏人を説得することは誰にもできまい。現に私は富の中になんの拘束も発見しない。それどころか、私はその中にたくさんの自由を発見するものである。


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