学者・研究者の名言格言一覧

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人生即努力、努力即幸福

手っ取り早く成功せんとする人は、手っとり早く失敗する人である。真の成功には速成もなければ、裏道もない。あせらず怠らず、長い道を辛抱強く進んでいくよりほかはない。

戦略とは、何をやらないかを決めることである。

どんなふうに死ぬかではなく、どんなふうに生きるかが問題なのだ。

節制には七養あり。これを守るべし。
一には言すくなくして内気を養う。二には色欲を戒めて精気を養う。
三には滋味を薄くして血気を養う。四には津液(唾液)をのんで臓気を養う。
五には怒りをおさえて肝気を養う。六には飲食を節にして胃気を養う。
七には思慮をすくなくして心気を養う。
これ寿親老書(明時代の医学書)に出たり。

行動だ。何もしないで、ある日突然潜在能力は現われはしない。【覚書き|潜在能力を引き出すにはどうすればいいですか?と問われた時の返答】

人間、貧乏であろうと、少しも慌てることはない。目的をもって生きる、信ずるところに生きる、修養につとめる、そこにおのずから積極的な人生の楽しみが生まれてくるのだ。

希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。

創業者は常に乱世に輩出する。乱世では組織とか機構とかいう表面的な問題は無視され、人の魅力とか、迫力とかが一番ものをいう。それだけに乱世ほど人間像がくっきりうかびあがる時代はないし、善にも悪にも極めて個性の強い独立不羈(どくりつふき)の人物が続々と生まれてくる。

一人の人間の歴史において、もっとも重要なことは、その人が何を目的としたかということである。その人によって成し遂げられたすべてのことは、常に大部分が偶然の事情によるものである。その偶然の機会のために実行されなかったその人の意志から遠く離れたものが出来上がってしまうことがある。そこでもっとも偉大な人たちの人生は、その人たちが実現した結果よりも、その人たちの目的と努力との中において、より多く表現されている。

一分間さえ休む暇のないときほど私にとって幸せなことはない。働くこと、これだけが私の生き甲斐である。

たとえ自ら意識しないにしても、他人を傷つけるばかりであって、自らは何の犠牲も払わないとしたら、その記憶は終生彼らを苦しめ、それを思い出すたびに穴があれば入りたい悔恨を起こさしめるに違いない。

人材こそが国家を盛んにし、また衰えさせもしたのである。日本の戦国時代は、雇い主が雇われ人を選んだだけではなく、雇われ人もまた雇い主を選んだ時代だった。組織と組織、また組織の内部で、常に人材が切磋琢磨し、能否が競われたのだ。もし政府が日本全国の人材を活かせないなら、その政府は倒されるしかないのだ。それこそが孫子が暮気と呼んだ集団的な気力の衰えを、再び朝気へと変ずる方途だからである。さもなくば、日本も国家として消滅するしかない。

神の前において人は皆、同等に賢く、同等に愚かである。

たとえ国家が要求したとしても良心に反することは決してしてはならない。

私は科学には偉大な美が存在すると思っている人間の一人です。研究室にいる科学者というのは、ただの技術者ではありません。それはおとぎ話に感動する子供のように、自然現象を前にそこにたたずむ一人の子供でもあるのです。

人生の中で恐れるものなど一つもありません。すべては理解されるものです。そして私たちの恐れがより小さくなるように、いまさらに理解を深めるときなのです。

わからないことがあると私は答えを求めて田園をさまよった。なぜ貝殻が山の頂上で見つかるのか。しかも、海にあるはずのサンゴや海藻などの跡をつけて。雷はなぜ起こった後までなり続けるのか。雷光は起こった瞬間から目に見えるのに、雷鳴はなぜもっとあとになって聞こえるのか。水に石を投げると、水面に輪ができるのはなぜか。鳥はどうして空中にとどまっていられるのか。こういう数々の疑問や不思議な現象が私の心をとらえていた。

人間は古代人によって小宇宙と呼ばれた。この言葉は実に当を得ている。なぜなら、人間には肉を支える枠組みとしての骨があり、地球には土を支える岩がある。人間は血液という湖を持ち、そこでは肺が膨らんだり、しぼんだりして呼吸作用をしているように、地球には海があり、四六時中潮の満ち引きが宇宙の呼吸作用を繰り返す。血液の湖からは静脈が出ており、体中に枝分かれしていくように、海は地球に無限の水脈を広げている。

君にはわかるだろうか。視覚こそがこの世界の美しさを包み込むのだ。視覚は天文学の師であり、人間のあらゆる技術を助け、導くものだ。視覚は人間を世界の隅々までおもむかせる。視覚は数学の様々な部門を支配する。視覚による知識は最も確実なものだ。それは星の距離や大きさを測り、星座の要素や性質や運行を発見し、そこから次に起こることを予言できるようになる。視覚は、建築と図面を生み、そして最後に絵画という聖なる芸術を創始した。おお視覚よ、汝は神の最も優れた創造物だ。汝の崇高さにふさわしい、どんな賛美の歌があろうか。どのような人々が、どんな言葉が、汝の達成したことを言い表せることか。

毎秒、膨大な量の情報交換があなたの体の中で行われている。それらのメッセンジャー・システムがそれぞれ固有の音を持っていて、それぞれのテーマ曲を高くまた低く、大きくまた小さく、繋がったり途切れたりというふうに口ずさんでいるところを想像してみるとよい。

私にはもう、脳と体を明確に区別することはできない。実際、神経ペプチド(神経ホルモン)について知れば知るほど、心と体を従来どおりの概念で捉えることが難しくなってくる。むしろ、心と体を統合された一つの心身(Body-Mind)という実体として考えるほうが理にかなう。

知識の成長こそ進歩の核であるから、科学史は歴史の核であるはずだ。しかし、人生の主たる問題は科学者だけが解決できるものではないし、芸術家や人文主義者だけが解決できるものでもない。それら全部の協力が必要になるのだ。科学は常に、必要不可欠ではあるが、科学だけでは十分でない。我々は美を求めるが、そこに合いがなければ何事も無意味だ。レオナルド・ダ・ヴィンチのたぐいまれな価値は、美の追求と真実の追求が、対立するものでないという例を我々に示してくれたことである。

普通はレオナルド(ダ・ヴィンチ)を科学者としてとらえ、画家としてのレオナルドは別個に研究することが多い。彼の機械や科学の研究を理解するのが難しいので、このように個々の研究になってしまうに違いない。しかしそれではあまりにも不完全である。というのは、美術史も結局は科学史との何らかの関係においてとらえなくては正しく理解できないからだ。いずれにしても私たちは、それによって人間精神の図式が形作られるシンボルを研究することになる。このシンボルは、絵画であっても数学であっても物語であっても数式であっても、同じ変化を反映するのである。

希望をかかげよう。僕もまた動物として恥ずかしくない死を遂げようという希望を。計画を立てよう。その希望を実行に移すための計画を。

めぐり合わせが良かったのです。パレスチナ人も幸運に恵まれたと思います。それというのも、交渉に携わった各人が、展望と勇気、創造性、とりわけ重要な友情を育む力を持ち合わせていたのからです。

5・6人が早口でしゃべりあっている場に密着してみよう。一人が語り、他の者が耳を傾け、そのあとでまた別のものが語り、というようには進んでいない。一斉に話している。これは対話ではない。不安によって語らされている独り語りの一斉放出に近い。

人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずしてあたかも真面目に勤め、貧苦を去って富楽に志し、同類の邪魔せずして自ら安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母につかえ夫婦相楽しみ、子孫の計をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛くるこそ、うじ虫の本分なれ。否、蛆虫のことにあらず、万物の霊として人間の一人誇るところのものなり。

ただ戯れと知りつつ戯れれば心安くして戯れの極端に走ることなきのみか、時にあるいは俗界百戯の中に雑居してひとり戯れざるもまた可なり。人間の安心法はおよそこの辺にありて大なる過ちなかるべし。

天動説が主流を占めていた頃、天動説に根ざして天文学的な事象を予測するさまざまなモデルが開発された。地動説に立つならば、それらの数式やモデルがもっと無理なく使えるということは、コペルニクスとケプラーが登場するまでわからなかった。彼らが登場してはじめて、天文学におけるパラダイム・シフトが起こり、学問上の飛躍的な進歩が見られるようになったのである。

いついかなる分野においても、科学者というのは世の中の動きについての基本的な見方を共有するものだ。その見方はその時点で支配的なパラダイムなのである。ほとんどの実験は、その見方の枠内で行われいくつかの小さな進歩が生まれる。

次世代のパラダイム(枠組み)に早くから気づくためには、ほとんどの場合、多くの反証を切り捨てなければならない。新しいパラダイムがまだ多くの問題を抱えているそのときに、古いパラダイムに打ち勝つことを確信しなければならない。このような判断は直感によってのみ到達しうるものである。

エキスパートの定義とは、ごく限られた分野で、ありとあらゆる間違いをすべて経験した人物のことだ。

一見して馬鹿げていないアイデアは見込みがない。

カメを見ろ。カメは甲羅から首を出した時のみ実前進する。【覚書き|自分の慣れ親しんだ安全圏から出なければ前進はないという意味】

数学における最も偉大な発見は「複利」である。

間違いを犯さなかったものは決して何かを発見したことはない。我々はしばしば、どうしてうまく行かないのかを見出すことで、どうすればうまく行くのかを発見する。おそらく、失敗経験のない人は、そのような発見をしたこともないだろう。

近年の目覚しい技術革新は、大多数のアメリカ人にとって生活水準の向上をもたらしている。われわれはこれに感謝するとともに、競争と技術革新の範囲を拡大させるような諸政策を貫き、それによって全ての人にとって機会が広がることを促進していくべきである。

研究者の良心に従って言えば、限界がどこにあるかは名言できない。ただ、2009年までは現在の半導体技術の延長で微細化を進めることができる。

ムーアの法則は長くは続かないだろう。なぜなら、トランジスタが原子レベルにまで小さくなり限界に達するからである。(トランジスタの)サイズに関して、我々は基本的な障壁である原子のサイズに到達するであろう。しかし、その向こう側に行くにはまだ2・3世代ある。そして、我々が見ることができるよりもさらに向こう側がある。我々が基本的な限界に到達するまでにはあと10から20年ある。そのときまでには10億を超えるトランジスタを搭載するより巨大なチップを作ることができるだろう。

いくら稼いでも節約しなければ駄目。それはちょうどザルに水を盛るかのようなものだ。またいくら節約しても、節約を通り越して吝嗇にすらしても、働かなければ駄目。それはちょうど徳利の中の水を守るかのようなもので、ついには腐って臭気を発するばかりだ。

世俗的な成功の第一義はまずなんとしても経済生活の独立にある。これなくしては何ごとの成功もおぼつかなく、またどんな成功も本当の成功とは世間で認めてくれない。この人生に最も大切な経済生活の独立には、どんな職業であるかにかかわらず、積極的に働いて、消極的に節約耐貧するよりほかに道はない。

財産を作ることの根幹はやはり勤倹貯蓄だ。これなしには、どんなに小さくとも財産と名のつくほどのものは作れない。その貯金がある程度の額に達したら、ほかの有益な事業に投資することだ。貯金を貯金のままにしておていては知れたものだ。

もし私が他人よりも鮮明に物事が見えたとすれば、それは、私が巨人の肩の上に立っているからだ。

私たちはこの冒険をひとりで冒す必要はない。今までの英雄たちが、私たちの先へ行ってくれているからだ。迷宮の道順はすでに解き明かされている。

私は実験において 失敗など一度たりともしていないこれでは電球は光らないという発見を いままでに、2万回してきたのだ。私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。なにをやっても楽しくてたまらないから。

知性は方法や道具に対しては鋭い鑑識眼を持っていますが、目的や価値については盲目です。空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。私たちはいつか、今より少しは物事を知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。

どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。
人間性について絶望してはいけません。なぜなら私達は人間なのですから。蝶はモグラではない。でも、そのことを残念がる蝶はいないだろう。

熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです。

人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されているということです。

この素晴らしい応用科学は労働を軽減し、生活をより豊かにしながら、なぜ我々に幸福をもたらしてくれないのか。答えは簡単である。我々がそれを有意義に利用するにいたっていないからである。

私にはよいアイデアが浮かびますが、他の人もそうです。ただ私の場合、幸運だったのはそのアイディアが受け入れられたということです。

ケチと節約とはまったく別物である。ケチは当然出すべきものを出さず、義理人情を欠いてまで欲張ることで節約とは似て非なるもの。節約は出すべきものをちゃんと出し、義理人情も立派に尽くすが、ただ自分に対してだけは足るを知り、分に安んじ、一切の無駄を排して自己を抑制する生活を指す。ところがこの両者が世間から往々同一視され、節約がいかにもしみったれなケチであるかのように罵られやすい。ここでたいていの人には節約の辛抱ができなくなり、辛抱ができにくいことの口実になってしまう。世間からケチと笑われ金を残すか、世間から気前がよいとおだてられつつ一生ピイピイして過ごすかふたつの中、ひとつを選ばなければならない。

これからの先進国間の勝負は独自性をどれだけ持つかで決まります。日本も真似をするだけではなく、その発明がなぜ生まれたのか、その背景となった精神を学ぶことが大切なのです。独創性を重んじる社会通念を作る努力が必要なんです。

私たちは人と話しながら頭では他のことを考えていたり、三つ四つのことを同時にやろうとする。一度に多くのことをやろうとすると、目の前のことに意識が集中しなくなる。そうなると、いましていることに楽しみが見出せないばかりか気が散って能率が上がらない。私は目の前のことに集中する癖をつけて以来、書いたり読んだり家の掃除や電話で話したりするといった生活のすべての技術が向上した。一度に一つのことしかしないと決めるだけでいい

自分がやるべきすべてのことをチェックし続けていると、なかなか充足した人間にはなれない。誰が何をやるのか、どっちが多くやるのか、そんなことばかり考えていると憂鬱になるだけだ。じつは、これこそが小さなことなのだ。ごみを出すのは誰の番かとあれこれ考えるより、自分でさっさと出して家族の責任を一つでも減らしてやった方がもっと人生は楽しくなる。

リラックスするとはどういうことか?この言葉を何千回も耳にしながら、その意味が本当に分かっている人はほとんどいない。私たちのほとんどは「やるべきこと」がなくなってからリラックスしようと考えている。人生の書類入れが空になることは絶対ないのに。

脳を使わなければ体が衰える。体が衰えれば行動半径が狭くなってますます衰える。この悪循環を断ち切れ。

同じ性格のものが3人団結してもそれは和にすぎないが、それぞれに違う性格の者が団結した場合には積の形で大きな力になる。つまり掛け算になる。

人は自分が気分に支配されていることに気づかない。だから突然人生がしんどくなったりするのだ。気分が落ち込むと、生きるのがしんどいと感じる。客観性がほとんど消えてしまう。なんでも個人的に受けとめ、周りの人たちの言動に悪意を感じたりする。だが、人生は落ち込んだ時に感じるほどひどくはない。

一人きりの時間を持つと、その日の騒音や混乱が和らいでいく。一人きりの時間を持つと、本当に心がほっとして穏やかになる。ほんの十分の瞑想でもいい、毎日一人きりの静かな時間を持とう。

仕事が楽しみならば人生は楽園である。仕事でも勉強でも怠け者で大成した人間はいない。成功者はみんな働き者である。

古い構造、体質にしがみついていると会社は十年で潰れる。日本の企業は本業にこだわりすぎ、赤さび企業に転落しないうちに異分野の柱を立てておけ。ライバルはどこから出現するかわからない。その中で自社が生き残り、勝ち残るためには狭い世界で本業を墨守しているだけでは駄目。思いもよらない分野に進出してこそ本業倒壊のリスクを回避できる。

本を読んでいると、まさに自分に向けて言われたような言葉に出会うことがよくある。そうした言葉に耳を傾け、十分に理解すれば、本は朝や春に負けぬくらい健康的でためになり、物事の新しい一面が見えるようにしてくれる。

私たちが悩んだり、不可解に思ったり、とまどったりしている疑問とそっくり同じ疑問を昔から賢者も抱いてきたのであり、例外は一人としていない。そしてそれぞれ能力に応じて自分の言葉や生き方でそうした疑問に答えてきたのである。

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