経営者・社長・会社経営の名言格言一覧

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戦争は終わった。惨憺たる敗戦である。グリコの本拠もかくのごとく灰燼に帰した。しかし、我々は決してグリコの再生復興を疑ってはならない。工場も機械も、材料も商名も一切が焼け失せたが、ここにまだ、さすがの敗戦にも焼けなかった最大の資本がある。それはグリコという看板である。のれんである。名前である。これは過去30年間営々として築き上げてきた我々最大最高の資本である。

よい牛をつくるには、牛の好む草をたっぷり与えなければならない。そのよい草はよい土壌に育つというのが、私の「米国で学んだ心理」だ。つまり、牛、草、土の三位一体というのが酪農本来のあり方である。

私はしばし呆然とし、次の瞬間、死を考えた。いっそ自分も立て坑に飛び込んでしまおう。その方がどんなに楽かもしれない。が、また次の瞬間、それでは責任者として卑怯者になると考えた。なによりもまず、遺族の方々に対する責任と、会社に対する責任を取らねばならない。そう思ったら勇気が出てきた。
【覚書き:福岡三菱新入炭坑に配属されたとき、大爆発事故が発生。責任者として事に当たる決意をした時を振り返っての言葉】

いつも生活の設計図を会社の運命に結び付いて描いてきた。平凡なようだが、顧みて幸せな男だ。
【覚書き:日本製鋼所に入社し、社長・会長を経て引退まで勤め上げた自分の人生を振り返っての発言】

私は翁にくっついて、よく一緒に旅行した。車中で食事の時間が来ると駅弁を買って食べるのだが、弁当箱を開けると、外へこぼれない程度に静かにお茶をかけて、一粒の飯もおろそかにしないで食べ、残ったおかずも、きちんと包んで家に持って帰られた。
【覚書き:天竜川周辺の治山治水事業、北海道の開拓・植林事業に全財産を投じ、近代日本の発展に大きく寄与した金原明善氏の付き人をしていた時を振り返っての言葉。翁とは金原氏のこと】

世の中に出てからも人の敷いたレールの上を無難に歩かされるのが嫌だった。だから役所でも民間でも仕事が軌道に乗ると、自ら手を引いた。事業というものは、計画を練り、新天地を開拓していくこと自体に楽しみがあるのだと思う。

心身ともに私はへばっていたらしい。昭和27年5月。意識を失って国立病院に入った。どん底にあって、私は人の心の美しさと温かさを知った。

事業というものは、正確に状態を把握していれば、やがては必ず成功するものである。
【覚書き:上記発言は閉鎖が予定されていた北九州の八幡と恒見の2工場を存続させた時の発言。様々な調査ののち閉鎖せずに経営再建できると判断を下した。結果、2工場は見事に再建に成功】

ひたいを集めて相談したのがウィスキーの製造だった。つまり松花江工業の計画でジェット燃料をつくるのに蒸溜の工程があったが、それから思いついたのが白酒を蒸留して、96から97度くらいの純粋アルコールにし、これをウィスキーに化けさせようとの算段である。

大気汚染、水質汚濁、従来の鉄道や自動車に代わる交通手段、都市の冷暖房など国民の生活環境をよくすることに役立つ技術部門を先導部門としてとりあげたらどうか。
【覚書き:日本経済新聞の取材にて日本の今後の技術開発の方向性を聞かれた時の言葉】

事業にはひとつひとつに時間をかけて大きくしていく方法もある。これを手っ取り早く実現できるのが合併で、リスクはあっても要はやり方次第だ。
【覚書き:東洋紡と呉羽紡の合併について振り返った発言】

若いうちは重荷に感じられても、自分の手に余るような仕事に勇敢にぶつかっていくことが大切である。
【覚書き:20代で日本軍とリットン調査団の英語通訳として同行した時のことを振り返っての言葉。】

この正金(正金銀行)には、一種の正金スピリットという伝統的な気風がある。それは行員が上下一体となって協力し、銀行を通じて日本国の国際発展に寄与しようという気概である。

臆病者と言われる勇気を持て。安全航行こそ、最大の使命であり、責任である。

窮するもまた楽し、通ずるもまた楽し。私はむしろ平坦な道を好まない。その反対に、難題にぶつかると、これを打開してやまない闘魂が頭を持ち上げてくる。

相手が信頼するに足れば、自らも信頼に値するものにならねばならぬとする努力。これが相互信頼の真髄である。
【覚書き:日産自動車社長時の発言。労組との交渉について語った時の言葉】

波渡りと同じく、仕事の上でもタイミングこそ絶対だ。早すぎてはならず、遅きに失しては無駄になる。
【覚書き:日本証券業協会会長時の発言】

新会社は設立当初から「スモール・スロウ・バット・ステディ(小さく遅くても堅実で行こう)」をモットーとしていた。
【覚書き:日商(現:双日)設立時のモットーを振り返った発言。日商は巨大コンツェルン鈴木商店の一部門が独立した会社。鈴木商店は大番頭金子直吉の放漫拡大経営と昭和大恐慌によって消滅した。その反省から上記のモットーが生まれた】

自動車を始めて私が得た信念は「金ができたら設備の方へ回せ。人間で能率を上げてはいかん。機械で能率をあげよ」ということであった。
【覚書き:1950年の大規模ストライキ中にトヨタ社長に就任。激しい労使交渉を経験した後に語った言葉】

妨害はかえって私の闘志をかきたてた。社員に対しては「社運を賭してこの事業を達成させなければならぬ」と決意を表明した。
【覚書き:大丸の東京進出時、東京で営業していた百貨店が仕入れ先に圧力をかけてきたことを知ったときを振り返り】

私の頭に浮かんだのは、無限と言ってもいいほど森林資源に恵まれた樺太のことだった。当時、東大の工科出身といえば、社内では一応エリートと目されていた。そんな俺が、何を好んで樺太くんだりまで行かなければならぬのかと思いもした。しかしいいじゃないか。誰も行かないところで思いきりやってみよう。たとえ地の果てでも男は仕事さえあればいい。そう思うと四肢に力がみなぎり、それまでの煩悶は消し飛んだ。

尾去沢の事故処理は、私にとって大きな試練であった。宇宙の威力というものが、人間生活の転変と建設という事業の上にいかに大きく覆いかぶさっているということを私は身をもって感じた。

兜町に入って50年以上になる。過去を振り返ってみると、朝から晩まで剣の刃渡りをしているようなものだった。
【覚書き:関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争後の不況などを証券業界で経験してきたことに対する回想】

三人で受け持ちの工程を一人抜いて私が入る。ちょっと工夫すれば二人でもできる。なるほどと連中が納得したところで、二人でやらせる。不平の連中は仕事から外して遊ばせておく。人数は減っても仕事が楽になるから、真面目な連中は喜んで協力する。
【覚書き:三井鉱山大牟田コークス製造工場の人員整理に取り掛かった時を振り返っての発言】

その土地の最高のホテルに泊まり、商談は豪華なロビーでする。服装、身だしなみにも気を使い、できるだけ良い服を着て、プレスもきかせ、靴はピカピカに磨いて、髪もきちんと分けてゆく。
【覚書き:三井物産の米国駐在員としてアメリカで生糸のセールスを開始するも、相手になかなか会えなかった時にとった行動。この作戦は成功した】

事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を安価な価格で出さなければならないと考えた。しかし、発明家は「俺の発明は」「俺の発明は」で押し通してくる。これだけの発明品が売れないのは、あなたのやり方が悪いといった調子だ。万一、発明家と一緒に事業をしなければならないような場合は、事業経営の面に一切口出させてはならないと悟った。

私は朝早くから工場に行き、職長たちと親しみ、晩は職長たちを呼んで茶菓をだして話を聞いた。経営の核心を知るために、原価を的確に知りたく、原価計算も研究した。私のこうした仕事ぶりは、周囲に好感をもって迎えられた。職長たちも、今度の人は前の人たちとは違う、よく話の分かる人だと褒めてくれた。
【覚書き|日本陶管で高浜工場長に就任したときを振り返っての発言】

かつて我々は占領下の集中排除法に挑んで二年間戦ったが、いまにして思えば、あれは貴重な試練であったとむしろ感謝したい気持ちですらある。
【覚書き:太平洋戦争後、各種企業の規制や分割が行われ苦しんだが、競合各社も力が弱まり、北海道から本州へ販路を広げることができるようになったことについての回想】

企業は地域の発展とともに発展する。したがって地域の発展に尽くすことが、そのまま事業のためになるのだ。
【覚書き:中部電力会長当時の発言。電力会社は地域の盛衰によって電気使用量・収益が変わってくる事業のため、営業地域に対し果たすべき企業責任があると理念を語った言葉】

欲望に限りがなく、些細なことにも腹を立て、おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。

「太平住宅」「太平火災」の組織を見ればおわかりのように、私はあくまで、利潤を追求する企業経営者とはなりたくない。私の理想とするところは、資本家も労働者もない企業形態を具現したいと思っている。その底に流れるものは、大衆に喜ばれる、大衆への奉仕である。こうした考え方は、私が貧しくして育った青少年時代の影響であろう。

サイレント(無声映画)からトーキー(有声映画)への転換を図るが、借金は200万に膨れ上がった。なぜそんな大金を借りられたか。またなぜ貸したかというと、賃借のことで私が微塵も嘘をつかなかったということだろう。
【覚書き:日活を買収し企業再建を始めた際、千葉銀行から多額の資金を融資を得られたことについての回顧】

私には海外での酒造りという心躍る夢があった。夢を追いかけるのに夢中で、老ける暇もなかった。
【覚書き:70歳でブラジルで蒸留酒カシャッサ(ピンガとも呼ばれ、世界で2番目に飲まれている蒸留酒)を造り、80歳を越えてから米国でワイン生産に乗り出したことに対してのコメント】

トヨタの給料は、GM時代の半分だった。朝は7時に出社して、夜は星を抱くまで働く。しかも休みは月に二日だけである。それでも酷使されているとは思わなかった。

給料日の5日前くらいになると、もう財布の中は空っぽで、子供たちにひもじい思いをさせなければならない。どうして、シャケの切り身を行く切れか買い、好きなビールの一本も買い、子供にはチョコレートの数枚も買って、一家団欒の楽しい夕食にすることができないのか。一生懸命働いている人には、信用という無形の財産があるではないか。
【覚書き:第二次世界大戦後の混乱の中で月賦販売を開始した志をふりかえった言葉】

返品やできそこないのソーセージをリヤカーにうず高く積んで、真夜中に葦合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた。運びながらこらえきれなくなって涙がポロポロ出た。
【覚書き:魚肉ソーセージをデパートに納入し、一時的な成功を得たものの、製品に保存性などの問題があり大量返品が来てしまう。その時を振り返っての言葉。このあと、研究に没頭し伊藤ハムの主力商品であるプレスハムの開発に成功した】

日本の金融市場は、遅かれ早かれグローバルスタンダードの下に機能することになるだろう。これを受け入れるには、日本の市場関係者が旧来の発想や経営路線から脱皮して、新たな市場で闘う気概とそれが国益に合致するとの考えに立たねばならない。
【覚書き:90歳の誕生日に】

売れるものに乗っかって売り上げを伸ばすのは、誰にでもできる。売れないものを売れるようにするのが、本当の商人ではないか。
【覚書き:バスクリンのヒットで得た資金を漢方研究に注いだことに対して、社内から批判を受けた時の発言。漢方の研究は父であるツムラ創業者のライフワークだった】

ブームの時は物が上がる一方だから商売は楽だ。会社の上役はお召の袴などはいて自動車を乗り回し、我々若いものもかなりだらけていた。この膨れ上がった取引が、戦争後の反動でグッとしぼんだのだからたまらない。
【覚書き:第一次大戦特需の好景気と、その後の反動不景気について語った言葉】

土曜・日曜・祭日が年にどれくらいあるか知っていますか?実に120日もあるんだなこれが。3年たつと、まる一年分になる。ビジネスは勝つか負けるか、ただそれだけです。遊んだら負け。月月火水木金金、働かにゃ損します。

市場で4位か5位でいると、No.1がくしゃみをしただけで肺炎にかかってしまう。No.1なら、自分の命運をコントロールできる。第4 位グループの連中は合併に明け暮れ、苦しむ。第4位になると、事情が全く違ってしまうからだ。苦しむことが仕事になってしまう。だからこそ、より強大にな るための戦略的方法を見極めることが必要になる。世界でNo.1かNo.2でなければ再建か、売却か、閉鎖かのどれかだ。

人間とは便利なものである。いま振り返ると、いい思い出しか浮かんでこない。ちょうど負けた馬券を覚えていないようなものである。三越の店員時代のこと、独学のこと、梶山商店創業当時のこと、しんどかったことや苦しかったことは、年月による浄化作用を受けて、すべてが懐かしいものに変わっている。

決して順風満帆ではなかったはずだが、回顧するとそのように見えるから不思議だ。いやな思い出を忘れることができるからこそ、人間は希望をもって生きられるものかもしれない。

俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

失敗することを恐れていては思い切った働きはできない。同じ働くのなら精一杯の力をぶつけて働く。そこで失敗するのなら仕方ない。

人生はマラソンのような長距離競争である。一気に駆け抜けようとすると落伍することになる。急ぐべからず、焦るべからずである。徳川家康も言っているように「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし。百里の半ばを90里とせよ」の心がけもって、長い人生の荒波を根気強く渡らなければならない。

人生の戦いにおいて、相手に負けるよりは、自らに負ける場合が多い。

我々の世代は「働く」の反対語は「休む」である。ワークの反対はレスト、これでは創造的ではない。ワークの反対はプレイ。そして、この二つが両立してこそ、新しい文化が花開く。ワークを一生懸命にやれば、プレイも命がけでする。それが若者ではないか。

自分自身の人生を、エキサイティングなものにしていかなければいけない。人間の能力にそんなに差はない。やる気さえあれば、だれでもたいていのことはできる。むしろ我々は、常に完全なことができるんだというひとつの信念を持つことが必要だ。

現実という壁の前に立った時、いたずらに壁の厚さのみを測ることがないだろうか。実行する前に言い訳を考えていないだろうか。とにかく壁に体当たりしてみることだ。鋼鉄と思っていた壁が、実は段ボール紙製であるかもしれない。たとえ鋼鉄であっても、ダイナマイトで爆破すればよい。それが創造的姿勢というものだ。

自己の使命を自覚し、堅固不動の自活的精神をもって事にあたれば、天は自ら助くる者を助くること、もとより疑いのなきことである。

今日、よく耳にする言葉に「インテリの弱さ」ということがある。これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、それにとらわれてしまい、それはできないとか、それはどう考えても無理だと思い込んでしまって、なかなか実行に移さないという一面を言った言葉だと思う。

実際、ああそれはいままで何度もやってみたんだが、できないんだ。と決め込んでいることが、我々の身のまわりには意外に多いのではなかろうか。ときには自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。

人間に寿命があるように、われわれの人間にも、それがいつのことがわからないにしても、やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。だからといって、努力してもつまらないと放棄してしまうようでは、人間でいうところの天寿を全うせしめることはできない。これはいわば人間はやがて死ぬのだから不摂生、不養生の限りを尽くすのと同じであろう。

一切のものには寿命があると知ったうえで、寿命に達するその瞬間までは、お互いがそこに全精神を打ち込んでゆく。そういう姿から、大きな安心感というか、おおらかな人生が開けるのではないかと思う。

物事を成就させる力は何か、その力の中にはむろん能力があろう。だが能力は必要な条件であっても十分な条件ではない。十分な条件とは、その能力に、機動力、粘着力、浸透力、持続力などを与える力である。そのような諸力を私は執念と呼びたい。

成功は次の成功への呼び水とせよ。失敗は次の成功への足がかりとせよ。この二つの相反する格言は、アフターケアの大切さを指摘している点で、共通の真理なのである。

自省の強い人は自分というものをよく知っている。つまり、自分で自分をよく見つめているのである。私はこれを自己観照と呼んでいるけれども、自分の心をいっぺん自分の身体から取り出して、外からもう一度自分というものを見直してみる。これができる人には、自分というものが素直に私心なく理解できるわけである。

何事によらず、志を立てて事を始めたら、少々うまくいかないとか、失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、本当にものごとをなし遂げていくことはできない。

相手を憎んで、蹴落とすようなことは、私の性格に合わない。敵も自分から作らない代わりに、特定の人にべたべたとくっつくこともしない。あくまでも公明正大。堂々と渡り合う信念はある。

儲けよう、儲けようと焦れば焦るほど失敗する。他人がいいぞと言ったり、上手く儲けた話を聞いて、あわてて手を付けると、もうその時は手遅れだ。いつまでも柳の下にドジョウがいるわけではない。

自分は生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末に考え付いたのが「儲けようと考えたのがいけない」ということだった。自分は儲けなくてもいいから、この世のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。【覚書き|様々な商売に手を出すも、ことごとく失敗したのちの発言】

すべて自分のことだと思って全力を尽くす。自分のことと思えば、どんなつらいことでも我慢できる。

一人だけオフィスに取り残された時、これからは俺が一国一城の主なんだ。世界を相手に暴れまわってやるぞと心の中で叫んだものだ。【覚書き|高畑氏の仕事熱心は有名で、朝から晩までオフィスに明かりがつき、24時間営業のような状況で世界中に取引の電話をしていた】

一本のピンも、その働きは国家につながる。【覚書き|どんな小さなことでも大きなことに繋がっているので、細部をおろそかにすると、いつか大問題が起こるから注意しろという趣旨の発言】

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